鶴見高校PTAの歩み

T.「PTA」の生まれるまで U.鶴見高校の「戦後」とPTAが果した役割
V.「学年別PTA」と「学期PTA総会」 W.子供たち・鶴高の伝統・高校紛争
X.活動の新時代を開いた「県鶴PTAだより」 Y.現在の原型を作り上げた50年代PTA
Z.「ふれあい運動」のスタートとPTA活動 [.鶴高PTAの組織づくり
\.こどもの安全と生命を守るために ].三ツ池の「鶴」たち

T.「PTA」の生まれるまで

 鶴見高校は50年の歴史を刻み現在に至るが、本校PTAの歴史は実はそれに及ばない。しかし、学校生徒の親とかかわりとしては創立の歴史とともに古く、昭和16年創立直後の記録に、「6月5・6日父兄懇談会」の記事を見ることが出来る。初期のPTA、いやこの「父兄会」なるものの具体的記録はすでになく、世情はすでに太平洋戦争突入という騒然たる中にあって、2日間をかけての懇談会からスタートした父兄会とは、どのようなものであったろうか、今はただ想像する他はない。その想像を誤らないために、記録から2、3のことをつけ加えておこう。
 創立以来終戦まで、鶴見中学より予科練合格**名、陸軍少年飛行兵学校合格**名、幼年学校合格**名、学徒勤労動員により出動、勤労奉仕にでる、全校行軍**方面、等の記事で行事日程が埋め尽くされている。そしてついに、「昭和19年12月、勤労動員第7陣**へ追加出動、これにより学校は無人となる」という悲痛な記録にたどりつく。そして終戦。学園生活は食糧難と空襲による校舎の破損の中でスタートした。昭和21年、年の暮れも押し詰まった12月22日に開かれた父兄会は、「後援会設立を議す」と記されている。翌々年創立されるPTAにこの年末の会議が引き継がれていくのである。

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U.鶴見高校の「戦後」とPTAが果した役割

 日本占領軍は、日本の教育民主化のために多くの政策を展開したが、そのひとつがPTAの創立である。
 昭和21年、アメリカの教育使節団の勧告に基づき、文部省は翌年「父母と教師の会−教育民主化への手引き−」を出した。「教育の民主化と子供の健全育成のためには、家庭・学校・社会が責任を分担していく。そのために大人自身の学習が必要である」として、PTA(PARENT-TEACHER ASSOCIATION)の組織化方針を決め、23年には「父母と教師の会(PTA)参考規約」を出し、指導に努めた。この下、鶴見高校にもPTAが作られた。
 昭和23年12月5日、「父兄会を解散し、新たに父母教師会(PTA)一発足」(初代会長高田三郎)とある。父兄会を解散した当事者たちの気持ちや、新しい組織の受けとめ方はどのようなものであったろうか、今は推測する手がかりもない。むしろ、事態はそのようなことにかかわっていられないほど、さし迫ったなすべき多くのことが、新たに作られたPTAを待ち構えていた。それは、荒廃した校舎を復旧し、教育の場を作り上げねばならないこと、この件に関して父母・教師にとって緊急の、しかも長期にわたる努力を要する課題が残されていた。
 昭和25年3月になって、この新設PTAとは別個の組織として、「整備協力会」が作られている。これは当初28年3月までの暫定的な組織として設立されたと資料にある。全校生徒の保護者の殆どの全員を網羅し、まさに新教育の公的機関からも指導されたPTAとしてではなく、それとは別に、しかも期限つきで組織を作って活動を始めたこと、そこに当事者たちの熱意と意気込みを窺うことが出来よう。別組織とはいえ、中心になったのは勿論PTA役員たちで、財政的協力はもとより、県をはじめとする関係方面への陳情、交渉を積極的に展開した。
 この活動の成果があってか、その年7月には家庭科教室の起工式を皮切りに、26年2月には2階建て校舎の増築工事(前期分)が起工、翌々年6月になって後期分も含めたこの全部が完工している(もっとも、家庭科教室の建築は、この年25年4月から男女共学の開始により、鶴見高校にも女生徒がはじめて入学したことを考え合わせると、あながち整備協力会の成果ばかりとはいえないかも知れないが。それはともかく、この家庭科教室は、ユニットキッチン、電気洗濯機など、当時としてはかなり進んだ設備を誇るものであった)このとき同時に運動場の拡張工事も完成している。
 あたかも鶴高創立9周年にあたり、その記念祭に際して当時のPTA会長高田三郎は次のように書いている。「……私は……さらに心の底からわき上る喜びを禁ずることが出来ない。それは先生と生徒の父母が心を一つにして『協力』してこの成果を見たと云う一点である。我等の協力と誠意は県御当局の認めらるる所となって、模範的な校舎と校庭が与えられたのである。感謝感激之に過ぎるものは無い」と、鶴高の「第一の飛躍」をなしとげた感激を今に伝えている。(「鶴見高校新聞16号。以下号数のみ記入したものは同新聞よりの引用)
 また、翌々年「創立第十周年を送る」として二宮龍雄(学校長、当時)は「……本校におけるこれら一連の躍進はすべての人の和による力が基調をなしているという事実である。生徒の父兄の職員の卒業生のそしてまた地元の人々の希望と勢力とが結集し、相和した力がこの躍進を生んだものであることを吾々は深く銘記しなければならない」(同19号)と述べている。
 察せられるように、学校の戦後復興は父母の経済的な、今でいう受益者負担の原則で進められるところが大きかった。たとえばこれに続く講堂兼体育館の建設に際し、昭和28年4月のPTA総会は、月会費100円を一挙に倍増の200円とし、これに整備協力会の入会金1,000円を加えて資金を作り、建設費に寄付することを決議している。これによる寄付の額はおよそ工事費の二分の一程度にのぼったようである。「予算については……1,500万円を要するとのことであるが、このうち県が二分の一、地元が二分の一となっておる」(鈴野延太郎、当時会長。同37号)
 講堂兼雨天体育館の建設は当時の痛切な要求であった。雨がふれば行事はとも角、体育授業の進行に大きな支障をきたした。この悲願がかなって、講堂兼体育館が29年8月起工、翌30年3月1日落成式が行われた。この設備も当時「県下に誇れるもの」であったと言われている。
 続いてこの年5月のPTA総会は図書館(予算600万円)、部部室の建設(同20万円)、新館昇降口の設置(同7万円)を決めている。いずれに対しても、設備協力会会費を支出することが決められている。「鶴高も県下に誇る体育館を持ち、さらに図書館を加えるのであるから、ここにスポーツに勉学にいそしむために絶好の条件がそろったわけである。この図書館、体育館をフルに利用して今までかくれている鶴高生各自が持つ覇気を発揮し、天下の鶴高としようではないか」(同55号論説より)
 子供たちがこのように言うようになるまでには学校設備建設に対する親の経済的負担は相当なものであった。だが、それはたんに金を出すというだけのことではない。たとえば、「冬になって霜解けがひどく、体操に差し支えていた運動場にこのほど一面に砂がまかれた。なお、砂はPTA……(なぜか以下数字抹消されている−−引用者)の努力により日本鋼管よりトラック百台分を運ばれたもの」(同18号)であったり、また、創立15周年に際し、「本校PTA会員である……手島鉄工所の手島純雄氏の奉仕的な計らいによって格別の値段で完成することになった」(同55号)という記録などに見られるように、教育環境整備に親の心遣いや目配りも行き届き、またそれが許される時代でもあったというべきであろう。
 やがてこうした一連の工事は、30年代前半の本格的鉄筋校舎の時代へと引き継がれていくのである。この「整備協力会」は、29年にPTAの内部組織として吸収されたと記録されている。しかし、別の記録で、36年5月には、「鉄筋校舎第3期工事竣工、3年有余にわたる工事であり、ようやく3階建ての新校舎が落成した。整備協力会の協力」と特記されて
いる。それほど戦後の鶴見高校の復興、環境整備に大きな役割を果たしたものと理解されるであろう。
 PTAの内部組織となったとはいえ、整備協力会は財政的にも大きな比重を占めていた。わずかに残された昭和37年度PTA予算書からもそれを読みとることができる。それによると、PTA予算は「普通会費」と「協力会費」とに分けられており、その概算規模で、前者が約275万円、後者が約485万円と、PTAの内部でも大きな比重がこの年に至ってもなお環境整備、建設におかれていたことが判る。さらに、「普通会費」の支出項目を見ると、そのなかでもかなりの部分(約6割)が施設維持費、生徒指導費、教科指導費となっており、成人委員会など今日では本来のPTA活動と見られるものへの支出はわずか2割余である。これはさすがに30年にもなる昔のこととはいえ、今日と比べるとPTA活動のあり方の大きな変化を反映しているものとして、興味深いものがある。
  昭和41年になって、「賛助会」が新たにPTAとは別個のものとして組織されることとなった。これは、「神奈川県立鶴見高校生徒、教職員の福利厚生並びに教育の振興を計る」ことを目的に、「生徒の親またはそれにかわるもの」で構成されたものである。これと同時に、PTAでは「施設委員会」を「整備委員会」に改称している。予算規模でみても、この両者はほぼ同じものに接近しており、また普通会費の支出項目にも今日のPTAの予算書になじみあるものが多くみられるようになってきた。「賛助会」の支出も、施設建設・整備としては生徒会館の建設を中心にしつつも、同等の重点を教科やクラブの指導研究費にあてるようになっている。この「賛助会」によって、生徒会館が落成したのは42年のことであった。
 これをさかのぼること10年も前、日本の社会、経済は「もはや戦後ではない」という言葉に代表される時代を迎えていた。しかし、今から乏しい資料を見て考える限りのことであるが、鶴見高校PTAの長い「戦後」は、ようやくこの校内環境整備が一通り終わったことをもって終わりを告げたといえるのではないだろうか。そしてこれと前後して、後に現在に引き継がれる新しい活動への模索がすでに始められていた。

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V.「学年別PTA」と「学期PTA総会」

 PTAの新たな活動の分野はどのように開かれていったのか。このことに入る前に、以上にみたような戦後復興の活動と同時に行われてきた学年活動の記録も判る限りではあるが記しておく必要がある。
 ついでに記しておくと、PTAの当初は名簿で見る限り、地区別の組織であったようだ。現在のように、電話その他の通信手段、交通機関の発達した時代と異なり、コミュニケーションをはかるのはまず地区、町内単位であった。
 創立以来の記録は不明であるが、手元の資料による限りではPTA名簿が現在のように学年別になったのは昭和41ないし42年であり、それ以前は各町内ごとに編成されている。
 これとはいささか性格を異にするのであろうが、地区単位でのPTA会合の記録はさらに下って、51年にも地区懇談会が開かれていたとある。PTAの前身が父兄会であり、その限りで各地域の親たちの会の集合体であったものが、学校との会・へと一元的に集約されていく変遷としてみると興味深い。
 勿論、学校との関係においてはPTAは「学年別」として現れている。記録ではじめてみられるのは26年2月、「学年別PTA開く」とあって、3日間にわたって学年ごとに「今学年最後のPTAが……開かれた」(同19号)と簡単に記されているものである。また、別の記録では、PTA総会の前後の時間に担任と父兄との面談が行われた、ともある。さらに27年11月には「進学就職問題を主に」開かれた「第2学期PTA」(ということは、学期ごとに総会があったということなのだろうか)には「かなりの好成績で300名程度」が出席、3年生は特に進学・就職の大切な相談があるとあって、総会の行われる定刻の2時より1時間早く、午後1時より各クラス担任との懇談会が開かれた」が、とても1時間では終わらず、総会の時間が迫って一時懇談を中断、総会終了後に各クラスで面談を再会、やっと「5時頃には全部終了散会した」(同31号)とある。やはり親たちの大きな関心がそこにあるのは、今も昔も同じことという訳なのだろうか。
 だが、これをPTAの学年活動としてみることは出来ないと思われる。むしろこれは内容上からいっても、PTA以前の「父兄会」の延長であると捕えた方が正しいであろう。実は、形の上で鶴高PTAで「学年」がPTAの組織として登場するのは、52年にもなってからのことなのである。この過程については先にいって触れる。

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W.子供たち・鶴高の伝統・高校紛争

 次の時代の活動を考える前に、PTAとしてはおそらく直接には如何ともしがたいことではあったろうが、しかしだからといって決して無関係・無関心ではありえなかったことについても触れておく必要があるだろう。これを抜きにしては、のちの「4+1ない運動」や、「ふれあい運動」への道筋が生まれてこないと思われるからである。
 山本豊信(当時本校教員)は、昭和47年当時鶴見高校創立30年を振り返って、創立当時の鶴中生は第一中学生徒と同じ校舎で学び、何かと彼らと比較される立場におかれていたが、しかし「伝統のある学校を目の前にして、それを見習っていたであろうが、その欠点も感じていたと思う」と書いている。
 また、牛頭良一(昭和51年当時PTA役員・卒業生)は、やはり鶴高生のおかれた立場を歴史的なものとして認めたうえで、鶴高は「下積みの苦労を無にせず、しかも進取の精神に富んだ、そんな校風」であってほしいと記している。
 批判的精神と自主、それを本当に主体のものとするには苦しい長い戦いを必要とするが、鶴見高校3年間はその課題をすべての生徒に問いかけるのである。
 昭和35〜45年、日本はいわゆる「60年安保」から「70年安保・沖縄」へ、世界的にもベトナム戦争をめぐる激動の時代を迎えていた。それは単に一つの政策の当否を問うだけにとどまらず、あたかも大洪水の時のように、全国至るところですべての問題と矛盾、人間の立場が問われ、また問う者自身をも不確かな立場にあればそれを押し流してしまうような、根源的なという言葉の意味で、ラジカルな時代であった。
 鶴見高校でこの問題が直接取り上げられたという記録には出会わなかった。ただこの年、2月帽子着用の是非検討、5月服装検査(39年以来記録にはない)、6月には実に3日間にわたって父兄懇談会が開かれた記録がある。そして10月に入り、11日より中間考査。この日、土曜日であった。週が開けた13日の月曜日、「学内封鎖」と記されている。
資料によれば、この年昭和44年、全国で学園紛争が起こり、高校では75校、検挙された生徒は78人にのぼる。神奈川県下では10月11日に川崎高校、ついで13日鶴見高校、23日には希望が丘高校で「生徒が教育内容や試験制度に反対して紛争」になったと記されている。 ある日、紛争に参加して別人のように立ち向かってくる子供たちに対して、親たちの当惑と対応はいかばかりであったろうか。またPTAの対応はどのようなものであったろうか。記録された物は残されていない。ある意味では、のちの歴史の判断を待たず、その場でまとめられるほど容易な問題ではなかったということもいえよう。また、別の面では、余りに問題が政治的な鋭さをまとっていたがために、それに幻惑されてより本質的な教育、子供たちとの理解と対話としてとらえきれなかったこともあったかも知れない。実は年月をおいて後に、これは「4+1ない」や「ふれあい」のなかで問われてくることになるのである。
 いずれにせよ、紛争は終わった。多くの者は傷つき、挫折を感じ、またある者はそこからなにかを理解したであろう。翌年3月、映画会は生徒会がはじめて主催している。11月、例年の県下一斉テストは不参加となった。しかし定期考査は1年余の討議の結果行われることになったと記されている。

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X.活動の新時代を開いた「県鶴PTAだより」

 激動の時代のなかでのPTAの模索は、広報紙「県鶴PTAだより」の創刊となって実を結んだ。これはその第9号を「鶴陵」と改題し、現在に引き継がれているものである。戦後のPTA活動は、整備協力会−賛助会と引き続く一連の教育環境の新設、整備に力を注いできたが、同時にこの過程のなかで独自の活動の芽生えも確実に育っていた。
36年12月にはPTA社会見学(工場見学)、37年11月、PTA成人教育講演会(講師・大浜英子)とある。38年にはPTAの組織体制も整ってきたようで、合同委員会や父兄懇談会が地区別、学年別に行われた記録がある。
 このような活動は、環境整備のように、謂わばものとして成果が見えてくるものではなくて、会員相互の親睦と向上、連帯の強化を目的とする点では、鶴高PTAとしての求心力を求め、また結果としてそれを生み出すものでなくてはならなへこの媒体となる活動が広報であり、それは独自の分野として系統的に行われる必要がある。おそらく学校側先生方の相当のバックアップも受けてではあろうが、この活動を母親たちが主体的におこした意義は大きいものがある。
 第一に創刊に携わった編集委員9名は全員が女性で、これは同時にPTAの指導権をもっていたのはおそらく男性側であったことを考えると、今日の状況を示唆しているようで、考えさせられる。
 第二には、これが創刊された47年度以前、鶴高PTA役員名簿には「広報委員会」またはそれに類するものは組織上存在していなかったことである。平野三郎(当時、会長)の言葉では「広報部」があったようであるが、いずれにせよ「広報委員会」が鶴高PTAに登場したのは、この創刊の翌48年度からである。9人は創刊当時はそれぞれ整備、厚生、経理、といった各委員会のメンバーであり、それが組織の枠を越えて結びつき、行動している。いずれもさすが鶴高生の親たちということであろうか。
 創刊当時の学校長歸山邦一は、「『広報紙創刊の)着想は結構だが、はたして成功するかな。途中で投げ出したり、学校に押しつけたりしないで下さいよ』と憎まれ口をたたいたが、委員の意欲と熱意でチームワークの成果がここに第1号の誕生となったことはまことに喜ばしい」と述べているのは、この辺の事情を防彿とさせるものである。
 紙面は、当初は形式的でないとはいえないが、広報紙にありがちな、上意下達、官僚臭がなく、読みやすい。号を重ねるごとに編集技術の向上のあとも見える。しかし、現在のように電子編集・印刷技術の発達がまだなかった当時、それほど難しいものではないが、やはり多少の心得が求められる新聞編集は役員たちの重荷になったようで、昭和52年発行の第9号より現在のパンフレット形式をとり、同時に題名を「鶴陵」としている。
 「県鶴PTAだより」の創刊号編集後記は、「会員の『心のかけ橋』となるよう編集員一同努力してまいりました」と連名で書いている(泉静子、生駒幸子、若槻幸子、金子和子、金子芳子、丸橋華子、鶴田つぎ子、湯浅美代、中山智恵子)。のちに52年当時の広報委員長川辺光子は、「この会報は会員同士が手をつなぐ『ひろば』です」と書いてるが、まさにかけ橋から広場へ、そのように発展するとともに、それ以後の活動にそれ以上のものを残していったといえる。

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Y.現在の原型を作り上げた50年代PTA

 三浦昭(53・54年度会長)は在任当時をふりかえって、「当時はちょうど世の中の変わり目だったような印象をもっている。学校内で教育が行われる雰囲気も生まれてきた」と語っている。
 世の中の動きとしては40年代からの石油ショックが一旦収束するかに見えたが、54年にはたちまち第二次石油ショックに見舞われ、世界的なスタグフレーション、景気後退に見舞われた。そのなかで家庭内暴力、校内暴力件数の増大、他方高校進学率はすでに90%を越え、一方国公立大学入試には共通1次試験制度が実施されるなど、高校教育も大きな問題を抱えるに入った。
 当時の三浦自身、「私たちをとりまく状況は……少なくとも私たちが経験し、すごしてきた過去とは異なった将来が実現することは、ほぼ間違いの無いことと推量されます」と述べていた。
 このような時代、鶴高PTA活動の新たな方向を求め、どのように具体化されていったのか。佐々木公定(52年度会長)は「汎P的色彩」として「たとえば講演会、懇談会、地域集会、学年委員会の独立、特に共通理解を高めるために……学年懇談会を重視したい」と書いているように、現在あるようなPTA活動のいわば原型を作り上げる作業が、この50年代を通じてなされていったのである。
 それはたとえば次のように、3つの分野に分けてみることもできる。

 1.学年委員会の組織化
 2.家庭教育へのとりくみ
 3.鶴高PTA全体の組織改編

1.学年委員会の組織化

 さきにV.のところで触れたように、PTAとしては学年別の会合がなかったわけではない。むしろそれは進学、進路の問題として大きな関心をもって開かれていた。しかし、もしそれがただ上意下達の場としてしか受けとめられていないならば、それは戦前の父兄会の再版に過ぎない。相沢一吉(58年度会長)が「95%が進学というなかで……学年委員会を主体して、先生方のご協力をいただき、……」といい、また永田保次(59年度会長)が「本年度はぜひとも父母会員と教師会員との話し合いの場を設けて、相互の理解を深めるように努力していきたい」というとき、そこには当時の事情を背景にしてはいたが、より根本的にはPTA活動のありかたがそこに問われていたのである。そしてこれは程度の差こそあれ、なお現在に引き継がれるべき問題である。
 鶴高PTAで学年委員会が組織として登場するのは、52年度にもなってからである。現在の運営、合同委員会のなかでは、もっとも新らしく、歴史の浅い委員会であることに驚く人もあるだろうが、事実である(50年当時学年委員会の名前がみられる記録もあるが、おそらく他の委員会の一部として組織されていたものと思われる)。しかも当初は各学年1名の委員が出ているのみであって、各学年・各学級から委員が選出される形をとるに至ったのは、さらにくだって59-60年度あたりからとみられる。内容的にも未開拓であって、運営をめぐっては「本音の話が出ない」という焦りの声がいつの時代にも出る。奥行きの深い取り組みが必要とされる分野なので、試行錯誤を恐れず、今後に期待すべきところが大きい。
 61年になって、白石謙祐(60・61年度会長)は「幸い本校では、近年学級懇談会や講演会その他の活動を通じて、親同士の連携も徐々に出来つつあるように思う」と評価している。52年の創設以来、約9年をかけて学年委員会が鶴高PTAのなかに活動の分野を広げ、定着した宣言と見ることが出来る。

2.家庭教育−ふれあいの原点をさぐる

 先にみたように、多発する校内暴力、家庭内暴力は社会問題ともなっていた。高P連の段階でもたびたびこれが取り上げられていた。鶴高でも、松宮俊英(56年度会長)は「Pは家庭教育の助言者として役立つ、よき委員会としたい」と述べ、また斉藤英雄(57年度会長)も「ここでもう一度、高校生を持つ親の役割を考えてみよう。学校への全幅の信頼と父母側の協力、横のつながりを大切にしたい」と書いている。ここで提起された問題が次の「ふれあい活動」という形で具体化され、取り組まれていくことになる。

3.PTA組織の改編

 「戦後復興」を成し遂げたPTAの新たな活動形態の仕上げはこの組織的整備であった。上杉昭夫(55年度会長)は前年度会計監査をした経験から、当時、「現在までの予算の組み立て方は、必要に応じた項目別の編成になっている。このために事業と予算を直接結び付けにくい。……(今後は)各事業別の予算編成をし、各委員会の実質的な活動を数字の上から掌握できるようにしていきたい」と書いている。組織と活動内容を明確化する基礎的な作業だったというべきであろう。もちろん一方では、各委員会の活動内容についての具体的点検も進められていた。それらを整理し、委員会制の新しい形態にまとめあげたのが59年度の規約改正である。これについては、VV.の項で改めてみていくことにする。

 50年代の活動は、以上のように60年代、さらに平成の現在へと引き継がれているものである。この時代に将来開花すべき種が確実に蒔かれていたということであろう。

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Z.「ふれあい運動」のスタートとPTA活動

 昭和55年の暮れ、神奈川県K市の高級住宅街で少年が金属バットで両親を撲殺するという事件が起こった。この事件は、決して特異な犯罪者の起こしたものではなくて、ごく普通の少年が受験、競走に追いつめられた結果の事件、との報道もなされた。これと前後して、全国的に家庭内暴力、校内暴力が大きな問題となっていた。
 神奈川県知事長洲一二氏は、この事件を「豊かな社会」における人間と教育の問題ととらえ、この解決は単に行政的な政策ではなしえず、全県民の草の根レベルの運動が必要であるとし、「騒然たる教育論議を」によって「神奈川から新しい日本の教育運動を起こそう」と訴えた。これにより提唱された「ふれあい運動」は、以後今日に至るまでPTA活動の分野でも一つの基調をなすものになっている。
 人とのふれあい、自然とのふれあいということから始まるこの運動は、しかしなにか特別な形をとるのではなくて、教育の根幹そのもののあり方を求めるものであるといってよいだろう。,県PTAまた地区のレベルでも、行事として取り組まれたものもあるが、それ以上に鶴高PTAの活動自体にこの基調を取り入れていくことが課題であった。
 56年より県社会教育の一貫ということもあって「コミュニティスクール」が鶴高で開かれ、PTAも協力して続けられている。講師は本校の先生方であり、その豊かな学識によって会員のみならず、地域の方々とともに豊かな時間を重ねている。
 古くさかのぼると、鶴高創立9周年(昭和25年)の記念祭にPTAが売店を出したという記録があるが、59年には、鶴陵祭になんとかしてPTAの参加をと願ったそれまでの役員の熱意が実り、始めて「憩いの場」が設けられた。第1回は室内であったが会員父母の参加が多く、設けた「ご意見箱」(!)にはさまざまな声が寄せられた。これが今日の鶴陵祭「PTAふれあい広場」へ発展していくのである。
 そして61年、それまでは主として校内で行ってきたPTA主催の講演会を鶴見公会堂に会場を移し、鶴見区内各地域の人々にも呼びかけて開いた。これも回を重ねるごとにその年度の役員を中心にテーマや講師、宣伝にさまざまな工夫を重ね、年々盛大となっている。
 63年度からは、鶴見区役所および区内各自治・町内会のご協力を得て、案内を回覧していただくようになった。石垣長作(当時、会長)は「鶴見区の連合町内会の席上、区長はじめ各町代表の並ぶ前で、講演会の説明をしたことは今も鮮明に覚えている。異議も出たが、各会長さんたちはよく理解してくれた」と当時を回顧している。
 この「ふれあい広場」と「講演会」の活動については、平成元年度県高P連地区研修会の提案校として、小沢治雄(当時、会長)が「地域とのふれあいをめざしたPTA活動」と題して活動報告を行い、助言者の白山高校諸星校長先生、寛政高校武田校長先生から高い評価を受けた。小沢は当時を振り返って、3年間助けてくれるよい役員に恵まれて幸いだった。皆の団結で楽しい活動が出来た、と言っている。

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[.鶴高PTAの組織づくり

 しかし、このような活動が軌道に乗るためには鶴高PTAの運営と組織について、歴代の役員が積み重ねてきた改善の努力があった。戦後のPTAから現在の形を生み出すそれは、謂わば過渡期を克服する努力であると言える。
 たとえば57年当時のPTAには6つの常置委員会(成人、学年、厚生、整備、経理、広報の各委員会)があり、「6委員会もあるが、何をするのか判らないのもある」という意見もあったようである。また、これらの組織はクラス単位でなく、学年単位に組織されるため、生徒の親として担任との意志疎通などきめ細かなコミュニケーションがはかれない、(クラス替えの結果)高学年になると、どうかすると委員のいないクラスもでる一といった弊害も生まれてきた。
 58年にはこのような事態を克服しようと、規約改正委員会(委員長荒川正、浜野教頭)が作られ、この作業の結果次の59年度総会で規約の改正が行われた。これによって、現在のような組織形態(学年、成人、広報の3委員会)に整理され、それぞれの分野の活動も効率的に行われるようになった。
 これを現在の組織形態の大枠を作った第1次とするならば、さらに引き続いて62年よりPTA活動、運営の独自性を確立するため細部にわたって整備を行う第2次とでもいうべき規約の検討が行われた。改正委員会(委員長石垣長作、当時会長)は学校側からも参加、常時15-6名でほぼ毎月1回のペースで2年をかけて審議を尽くした。これにより現在の規約、各細則が定められた。

 昭和62年、これら一連の作業と、これまでのPTA活動に対して鶴見高校PTAは神奈川県教育委員会より「優良PTA」として表彰された。ついで63年、全国高P連富山大会において「団体表彰」を受けた。2年続きの受賞の栄誉を得た。当時の会長石垣長作は、「当時の状況としては、PTAとしての活動分野を確立していること、そのひとつとしてふれあい教育を地域にむけて進めようとしていること、このような基準があったのではないか。幸い本校PTAは前任者の白石会長時代から引き継いだ蓄積があり、それを発展させる志向が認められたものと思う。受賞によって、対外的に評価されたことは、もとより素晴らしいことだが、これによりPTAが校内でも一定の認識を得ることが出来るようになったことが、大きな成果といえる」と語っている

 公教育におけるPTAは、一面からみればその大部分に父母という数年で交代する、謂わば通過集団を抱えた組織である。たとえ短期間であっても、その活動が数世代にわたるもっとも新しい部分であること、活動の意味が公教育を媒介にして現代社会を動かす信号の一つである(かも知れない)ことを忘れるならば、それは自らを軽んじることであり、学校の単なる付属物となるか、外部からの指示や個人的な関係で運営され、必ず腐敗する。その活動を継承、蓄積・発展させていくためには、上にみたようにその時代にあった組織づくりをするとともに、組織の運営についてもその内実たる精神を心得て行うことが大切であろう。したがって、「私たちの時代のPTA活動は特に目新しい行事に取り組むというより、次の世代に上手につながってほしいと願い、活動の継承に心がけました。また横の関係でも各委員会がお互い理解できるように心がけました」(吉岡頼子、池田万利子、平成2年度当時副会長、会計)というのはPTA活動一般に通じる一つの重要な指摘であろう。
 このようにして現在平成3年度、「男性・お金持ち・偉い人」の古い会長イメージを自ら払拭した中島弘子会長を中心に、鶴高PTAは次の飛躍をめざして新しい歴史を刻み始めている。

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\.こどもの安全と生命を守るために

「4+1ない運動」の変遷

 いわゆる「車社会」の発達とともに、「交通戦争」という言葉が生まれるほど、交通事故が多発し、高校生の犠牲者の増大は一つの社会問題となった。近年、神奈川県下で年にひとクラスの生徒数ほどの高校生が交通事故で死亡するという事態が続いている。
 昭和55年、全国のPTAではこの事態を重くみて、高校生の2輪車免許取得を制限したり、2輪乗車を禁止する運動に乗り出した。学校も多くはこれに協力、校則でこれを禁止、違反者を処罰するところも多くあった。
 神奈川県では、これを「4+1ない運動」(免許をとらない、車を買わない、車に乗らない、人に乗せてもらわない、親は子供の要求に負けない)として、親も巻き込んだ運動を展開してきた。
 しかしその後も事故数、死者の発生も止まることなく、この運動の見直し(60年)の必要性に迫られた。本来この運動は、子供の生命と安全を守るための緊急避難的な意味合いをもって取り組まれていたのであるが、実際の効果があがらないなかで、この運動の法的側面(法では免許取得を認めているという)のみが表面化したりした。学校によって大きな差があるが、2輪免許を取得する生徒の数も増大した。また親も価値観の多様化のなかでこの運動に対応できなくなっていった。
 平成2年度になって県はこの運動を「高校生の交通事故を防止ずる神奈川新運動」と改め、為校生を主体にした運動に発展させることにした。しかしこれは一部ジャーナリズムによって「バイク解禁」「乗せて教える」というように宣伝されているのは、一面化であろう。
 「車社会」は戦後の社会が企み出し、ある意味では現在の生産形態、社会生活の根本的な一部となっている。そこへの参入は、端に多少の技術的な巧拙によって対応できるというものではないのである。生徒の生命と安全を守るためには、より基本的、系統的な対策が望まれる。
 鶴見高校は周辺に幹線道路を控えていることもあって、比較的事故が多いといわれる。4十1ない連動に先だってすでに昭和40年には「バイク通学禁止」の記事かみられている。そうしたなかで、一方ではこの運動のさなか、なんと「内燃機関研究会」(!)という部活もあって、「公然とは明かすことの出来ない楽しい活動もしていた」ようであり、鶴陵祭(59年)ではこのクラブは堂々と校長先生や各先生方、OB、父兄を交えて座談会をしている。(塩田賢一、当時生徒)今の運動をすでに先取りしているわけで、さすが鶴高生というべきかどうか。

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].三ツ池の「鶴」たち

 鶴見高校50年とPTAの歴史を振り返ってみると、文化的行事が多方面にわたってよく取り組まれていることである。
 講演会は、先にみたような地域に進出して行う以前は主として視聴覚教室などで行ってきた蓄積があり、それが発展してきたものである。それに以前は、毎年やはりその当時の第一線の講師を招いて講演会が開かれている。

 また、これは当初「職員演劇」とされているが、演劇も盛んであったようだ。第1回公演は昭和27年、「失われた芸術」。脚本は水沼和雄(!当時は本校教員)、先生方もエキストラで総出演の楽しいものであった。生徒たちは先生方の演劇を「ドタバタ座公演」と親しみを込めて呼んでいたという。本校の先生が作・演出をされた(昭和32年、川久保徳男「出来事」)ものも、この他にも記録されている。なかには、「見鶴高等幼稚園」(昭和34年)という、題名から察するに今でもアンコールしたいような気がするのもある。これらの演劇は例年、卒業式を控えた送別会のメインイベントで、会場(川崎公民館など)を借りて行われていた。ただ残念ながら、35年を最後に公演の記録がない。
 音楽会は、昭和30年の講堂兼体育館の落成式に際し、宮嶋先生(当時)のピアノ独奏、音楽部のコーラス等の出演が記録されている。また翌年の創立15周年には校内で記念音楽会、校外の県立音楽堂では厳本真理のヴァイオリンリサイクルを開くなど華やかな歴史がある。
 昭和40〜50年代のPTA厚生委員会が主催する「陶芸教室」は「これを鶴見高校PTAの伝統行事にしては」という声があったほど、盛んであったようだ。
 また、社会見学は伝統的に成人委員会の行事としてほとんど毎年、見聞を広めるために役立っている。さらに、社会教育の一環として取り組まれたコミュニティスクールは、深い学識をもつ本校の先生方を講師に、広く地域の人々の参加を得ている。(社会見学、コミュニティスクールについては付表参照)
 成熟した社会において、子育てを含めて次世代へのはし渡しについては、それ以前の成長期の時代とは比較にならないほどの努力と知恵が求められる。それは個人的な努力の問題であるというよりは、一つの環境、風土ともいうべき状況をいかに作るかという問題であろう。いま50年の風雪のなかで、鶴見高校の文化的伝統はそのなかから多くの優秀な人材を生み出してきたし、今後もそのように作り上げていくことが望まれている。
 先哲のことばに「ミネルヴァのふくろうは日募れとともに飛び立つ」という。ミネルヴァの栗は知恵の神とされ、この言葉は、人間の英知はすべての現象を包括した後の深い洞察の.上にはじめて成り立つ、というほどの意味であろう。歴史の激しい激動期に、時代をじっと見据えて、模索と蓄積の時を重ね、そこには決して溺れず、やがて強い確信をもって'大きく次の21世紀に羽ばたいていく、そうした子供たちを育ててくれる鶴見高校であることを親たちは願っている。そして、そのような子供たちの親の集団であることも、それ自体が更なる研鑽と努力が必要な、一つの資格であることに誇りをもって自覚しなければならない。

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